昭和44年11月9日 夜の御理解


 今度、豊美の結婚式のために、御霊地に参りましたときに、もう式も終わってから、上野さんが同じ学院生のお友達を連れて、又やってまいりました。
 えー、つつみさんていう方、その方から今日、手紙がきて、日頃こちらの新聞を見せてもらい、こちらのお広前のお話を聞かせて頂いております、ほんとにあの、こちらの御理解を聞かせて頂いて、その裏付けをいただいたような気がすると、ちょうどその朝の、学院生の奥城参拝のときに、えー、必ず御神訓を読まれるそうですが、その日の御神訓が、「信心して御陰のあるのを不思議というまじきものぞ、祈りて御かげのないときはこれぞ不思議なることぞ」という二か条を頂いて、おったと。ところが私共があちらに参りまして、私共というのは、上野さんたちですね、あー、お宿にお伺いさせて頂いて、何か一言ご理解を頂きたいというて、お願いをさせて頂いたら、親先生のご理解が、その日の体験を通して、みかげのあるを不思議というまじきものぞ、というご理解だった。もう恐れ入ってしまいましてからということの、表現をね、このように書いております。
 「あのように親しく、やさしくお付き合いくださいまして、勿体無くて勿体無くて、嬉しくて嬉しくて、有り難くて有り難くて」と、お礼の言葉をいうておりますね。
 ね、わたしはここんところがね、信心には絶対これが必要だという、有り難くて有り難くて、勿体無くて勿体無くて、嬉しくて嬉しくて、ていうもの、ここんところをね、私共の信心の内容、そのようにまあ、うれしかったと、こういうふうに言っておりますね。
 私共の信心の内容にそういうことになっておるだろうか、ほんとに、絶対、ただ、有り難くて、有り難くてだけじゃいかん。
 もうなんと心嬉しいものが信心になからなければダメだ。同時に私のようなものに対して、このような勿体無くて勿体無くてという思いもなからいかんことは勿論ですよね。
 そういう信心内容を頂かせていただくということが、なら、どこから生まれているかというと、ね、読ませてもらったり、話を聞かせて頂いたり、それをただ生に先生にお目にかかって、生な御理解を頂いたということがです、しかも、その日の体験を通して、今朝、学院長から頂いたばっかりのご理解が、その裏付けを持って、このみ教えは、こういうもんだと教えられた、そのことが、そのように、つつみさんをして感動させておるわけですよね、
 ですから合楽の人達はそこんところを、いつもいただいておるわけなんだけれどね、やっぱり少し慣れっこになっておる、マンネリになっておるといったような感じがする。嬉しくて嬉しくて、勿体無くって勿体無くて、ね、というような信心が内容になからなからにゃいかんということ、また、嬉しくて嬉しくてというところがありがたいですね 。どうぞ。
          大坪かよこ
から